問うことの彼方

作曲をライフワークとしエンジニアで生計をたてている者です。音楽のこと、社会のこと、人間のこと、科学のことなど、あらゆる事に問いを立てていきます。

医学研究における議論のありよう

 とある事情で医学研究の学術集会に参加した。医学の研究論文に触れることや医学関連学会にかかわるのは初めてではないものの、物理学を中心とする自然科学系の会議や報告会に慣らされた自分にとって、医学研究というのが、なかなか馴染めない。

 医学研究というのは、物理学の立場からするとかなりの応用分野に見え、そこには物理学、化学、生物系科学はもちろんのこと、数学や哲学まで、幅広い知識が必要となるし、医療行政、医療制度にかかわる話題ともなれば、法律、社会学的な知識も、基本的なところがわかっていないと、太刀打ちできなくなる。

 そして最近の医療では、科学的なセンスに加え、デザイン――あるいは、芸術的センス、工学的な設計技術との融合とも言える――も重視されてきている。これは現代の医療界においてはとても重要な観点であるし、避けられない潮流でもあろう。

 何にも代え難い人間の命やQOLにかかわるのが医療である。生命に関わることとあらば、あらゆる分野の専門的知識群が総動員されるべき世界であるのは当然のことかも知れない。ただし、医師達全員があらゆる分野に精通しているわけではない。皆、得意分野というのがあって、医師といっても実に色々なタイプが存在する。そもそも自然科学の習わしとも言える論理的思考を中心とした議論の進め方と、デザインのように論理を重視しながらも、試行錯誤しながらクラフティングしていく物事の進め方は、あらゆる点で相反したり相容れない要素を持つ。いずれも得意とする医師はそうは現れない。

 ところで、こうした医療分野の学会に触れると、人体というのはつくづく、驚異的に複雑で巧妙で、しかも無駄のない機構をもつ巨大な時計仕掛けの小宇宙のような気がしてくる。しかし、それがあまりにも巨大過ぎて、われわれは全体の極々僅かの機序(メカニズム)しか理解できていないのであろう。わからないことが多すぎる。まるで、大海を目前にした波打ち際で貝殻を拾う子供のようである。

 以下は私の直感である。物理学的なセンスでは、何らかの現象は特別な何らかの原因によって発現すると考えるのが当然になっている。その原因系を支配する諸現象もまた基本的な物理法則によって支配されている。その基本的な物理法則も、その原因系を辿っていけば、いずれは統一理論に行き当たり、世界に現れる全ての現象はシンプルな少数の法則から導かれる、と考える。少なくとも、基礎的な自然科学系の学問的態度としては、今でもこのような観念が典型であり、中心的であろう。

 一方、医学研究では、ある人体にて発現する現象の原因系を追究していっても、循環に陥ることが多い。ある医学研究者が、現象Rの原因が現象Cにあると考えたとしても、現象Cの原因こそは現象Rであると主張する人が現れてもなんらおかしくない。実際に、今回参加した講演の中での白熱した質疑応答においても、そんなニワトリ-タマゴ論争を見かけたのである。

 人体は創発的に構成されているとするならば、実はリニアな因果関係でとらえるような、法則定立的(nomothetic)なスキームでは、目前の現象を記述することは困難となるのは目にみえている。因果関係の直線性にあまりに拘ることは避け、循環的構造には循環そのままに、循環のなかに積極的に飛び込んで、解釈的循環のなかを漂うような議論の方が、医学系研究のメソドロジーとしては適合しやすいかも知れない。医学が単一の学問分野にとどまらず、多くの領域と横断的な繋がりをもつことが求められるからこそ、なおさらそのように言えると思うのである。

 ただしそんな議論においては、そういった循環にハマり込んで行くようなプロセスを不快に思わず、ある意味で楽しめるくらいでないと、耐え難きコミュニケーションにはなるだろう。議論がどのような共有スキームのなかで進められるかは、議論を行う者の専門的理解力だけでなく、広範な世界を洞察できるだけの資質、フリースタイルを好む真の社交性、自由を重んじるといった趣向の程度に、大きく左右されることであろう。