問うことの彼方

作曲をライフワークとしエンジニアで生計をたてている者です。音楽のこと、社会のこと、人間のこと、科学のことなど、あらゆる事に問いを立てていきます。

世界は「問い」で構成されている

 「問い」を立てることこそが人間存在の本質である。

 世界を満たす事物はすべて、人間の「問い」が発せられる場そのものであり、人々の「問い」があるかたちあるものとして現実に固定化し、流動化し、変化していくものである。

 たとえば音楽や絵画はそれ自体が作者からの「問い」なのであり、また自然科学は「問い」から研究が生じ新たな「問い」を生んでいくのであり、またさらに社会というものは人々の「問い」の雲集霧散の結果――すなわち、われわれの意思が衝突と散乱を繰り返しながら創発されるもの――である。かたや哲学というのは、人間が「問い」をたてるということ自体について「問う」、「問い直す」ものであり、われわれが自分自身のことを考えるのは、見えない“わたし”への「問い」なのである。

 逆にいえば、何ら「問い」をたてない人間は、ただ空気を吸い込んで物質を摂取しては代謝メカニズムによって外界とエネルギーを交換するに過ぎない機械と同然である。また何も「問い」を立てない(立てようのない)何らかの事物というのは、われわれにとっては見ることも聞くことも理解もできず、解釈も判断もできないものであろう。そのようなものは、われわれにとっては、世界において存在すると把握することも不可能である。

 人間は、自分が知覚する要素、あるいは、思惟における要素となりうるものしか、その存在を問うことができないのであるから、われわれが把握する世界というのは「問い」が充満している時空間であり意識なのである。

 かくしてわれわれは、日常において常に「問い」をたてながら、また他者からの「問い」に直面しながら、「問い」に対するこたえ(真理)があるという理想を持ちつつ、いや、どこまで行っても絶対的な真理なるものには到達し得ないといったもどかしさを感じながら生き、どこかで必ず死ぬのである。

 であるならば、こうしたわれわれの問いをたてるということを繰り返し、あらゆる事どもについて思惟を積層していくという、ほの暗い森の中の歩みの先――その膨大な数の「問いの彼方」――に、果たして光溢れる明るむ場は開けているのであろうか。■