問うことの彼方

作曲をライフワークとしエンジニアで生計をたてている者です。音楽のこと、社会のこと、人間のこと、科学のことなど、あらゆる事に問いを立てていきます。

創造行為における問い1

「問うこと」について問う意味は、「問う」という人間本質にかかわる行為についてのメタ的観察にもとづいて、さらにこれを問い直すことである。そうした観察を今後続けながら、このブログを自分の思索のメモ代わりにしようと思う。

 私が大変気になっており、この「問うこと」についての考察において対決しなくてはならない主たる課題は、「創造行為における問い」である。以下は、それについてのメモである。

 

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 われわれの思惟というのは、問うことから始まるのか、思惟の先に問いが立つのか、いつも曖昧である。問うからこそ何かを深く考えるとも言えるし、深く考えるからこそ問いが立つのかもしれない。

 創造行為においては、後者の方が重要となるケースが多いかもしれない。「問う」からには、既にそこにある何ものか、すなわち、問う対象となるものが存在しなければならない。いや、厳密に言えば、その問う対象の存在につい一旦は認めなければならないとするのが正しいのかもしれない。いずれにしても、その存在を知覚し、認識し、対象へのある程度の先入見がなければ、それを問うこと自体が難しい。

 たとえば、音楽の創造行為について考えてみる。あるテーマがあって、それを元に楽曲をつくるとする。テーマをフーガのためのテーマとしてフーガを構築する場合、ソナタ形式の第1主題として、ソナタ形式による楽曲をつくる場合、それに限らず音楽というのは「素材の提示とその展開」によって作ることは大変多く、作曲家はテーマに対する分析や、テーマの持つ可能性について想定する能力が必要となる。

 そのとき作曲家は「そのテーマとは何か」を問うことになろう。テーマへの問いは、テーマへの分析に向かわせ、実際のテーマの提示と展開についての作曲行為は、分析結果にもとづく試行錯誤の連続となる。大量のスケッチを書いて完成にもっていく作曲においてはもちろんのこと、泉のように溢れ出る楽想のままに、曲を紡ぎだすという作曲の方法においても、意識的にも無意識的にも、このようなアナリシスとトライアンドエラーと最後のチョイスという過程を踏んでいるはずである。

 そこで、「そのテーマとは何か」という問いを立てることの意味を考えなければならない。「そのテーマとは何か」と言えるためには、まずもって「そのテーマ」が現前してこそ意味をもつ。「そのテーマ」がまだ見えない(聴けない)ものである場合は、「そのテーマ」のその ( the ) は付かないことになるが、「テーマとは何か」という問いは酷く抽象的で、実際の作曲行為を進める原動力にはなりにくい。抽象論も必要であるが、「そのテーマ」を活用した作曲というのは、抽象的考察を幾重にも積層して獲得した作曲家の抽象的感覚の上に、具体的な「そのテーマ」が乗せられてはじめて具体的な意味をもつのであるから、「そのテーマとは何か」の問いにおいて、「その」は重要な要素なのである。

 上記では「テーマ」のある楽曲の創作を例としたが、テーマというものが見当たらない音の集合で創作が進められる作曲もあろう。しかしその場合でも、作家である以上、その音の集合の是非を問うプロセスがあるはずである。その時点で、その音の集合は「テーマ」と呼べるものでなくても、先入見が宿る場所なのである。

 またさらに反論に備えるならば、そうした是非を問う必要のない作曲もあろう。偶然的に起こる事象を作品に取り入れる場合である。その場合でも、そうした偶然性を取り入れることによる効果の想定というものはあるはずであり(そのような想定をも作家が持たないのであれば、もはや作曲とは言えないというのが私の立場である。モノや概念を「つくる」職業の人々には、「作為」がなければならない。作っているものは人工物である)、その効果の想定が先入見の居場所なのである。

 したがって、「~とは何か」という問いを立てる際に、「~」については特別な何かを見出していることが多いのである。わかりやすく言えば、「~」がなんとなく気になるものであり、しかしながら完全に作曲家がそのテーマを練りだした際(あるいは誰かのテーマを借用しようと思い立ったそのとき)に、そのテーマに感じる可能性、そこに見いだされる全体像というものに、かなりの期待感をもつからこそ、いままさに将来どうなるかわからない(といっても目の前に実際に見える)ような「その~」とは何かを問うことになる。

 このように、われわれが創造行為において問いを立てるときには、その問われる対象については、すでに目の前に現れ出ている何かであり、それについての先入見が豊かに育っているものに他ならない、と言えるケースが非常に多いと思うのである。

 では、既に現前している何ものかについて、それは何だと改めて問いを立てることとはどういうことか、創造の過程において、あえてそのような問いを立てるものであるのか、知らないうちに問いは立っていくのか、などという点を次に論じていかなくてはならないであろう。それについては次節に回すことにして、上記の小さな考察から示唆されることは、問いを立ててから動き出す思惟は抽象論が多く、動き出した思惟の先に問いが立つという場合は具体論の展開に多いかもしれない、という想定である。もちろん、いつでも創造行為は具体的なものであるから、問いは最初から立つのではない、と言えるかもしれない。

 創造行為について論じる際には、いろいろと気をつけなければならないのである。「創造行為とはこんなプロセスだ」などと限定することは恐ろしいし、かといって「何でも良い」とすると、ここで論じることさえ何でも良いことになってしまう。創造は人間の自由と不可分であり、私はその自由の領域を狭くしようなどとは思わない。だから、上記では「かもしれない」という言い方で終わる文章が増えた。今後も「かもしれない」という言い方は続けなければならないであろう。いつか自分に決心がついて、「~である」と言いたいと思う心もある一方で、「~である」と断定する世界が果たして「問いの彼方」に相応しいものであるかは、大変疑わしい限りである。

 

(2)につづく